スタッフト・ヒューマン (1)
スタッフト・ヒューマン
1 シェミーの国へようこそ
//賽目六郎 【カプセル部屋】
人間は嗅覚で感じたものが記憶に一等深く残るのだったか。明瞭に思い出せずとも、この空間の異質な匂いには確かに覚えがある。
「それでお前たちに聞きたいんだが」
ひやりとした緊張感。
誰かに見捨てられたような孤独感。
そして相対する人間への不信感。
感情のない鉄の機械等と、白々しく光る照明が所在のないいきものたちの恐怖を煽っている。
「本当に何も覚えていないんだな?」
「ええ、名前以外は何も。ただ少しこんな目に前もあったようなあわなかったような…という感じです」
口早に説明するのは、城ヶ根巳久里と名乗る青年だ。まだ若いのだろうが、その割には口調も性格も不自然に堅いような気がする。
「僕も僕がヘンリー君ってことしかわかんない!困ったなあ!」
明らかに場違いなテンションで声を上げ、大げさな身振りで首をかしげるその男は、ああもう、こいつ、こいつは…!
「…困ったさんはお前さんだろうが!」
がしり、とそいつの頭を掴みもぎとらんとする。この場で一番怪しいのはこいつだ。もしかして、こんな怪しいところに俺たちを連れてきたのはこの着ぐるみ男じゃないのか?
「やっやめてよぉ!中の人なんていないよぉ!!」
思いのほか本気で抵抗され、ミチミチ、と布が悲鳴を上げている。うわ、なんだこのうさぎの化け物は。
「お、おじさん、やめてあげて!ヘンリー君、かわいそうだよ…」
「六郎さんお気持ちはわかりますが、彼女の夢を壊すのも憚られますし…」
少年少女の制止で渋々力を緩める。握っていたところが少したわんでしまったようで彼は大事そうにそこをさすっている。
この冗談みたいな存在は一体なんなんだろうか。自らのことをヘンリーと名乗るこのピンクの着ぐるみ男はさっきからふざけた調子で絡んでくる。この危機的な状況で、嫌に楽観的すぎるし顔が見えない時点でこいつに対する不信度は加速度的に増加中だ。いっその事全部引っぺがしてやりたかったが、彼は死に際の虫如くの抵抗を見せるのだ。
「絶対お前なんか隠してるだろ」
「もう、本当に何も覚えてないよって言ってるじゃないかあ!六郎くんはしつこいなあ」
「…二人とも喧嘩はやめてください、ミネットさんが怖がっているでしょう」
半ば呆れ顔で城ヶ根が注意を促す。確かに、傍らにいる少女は不安そうに目を瞬かせていた。
「あわわ!ごめんね、ミネットちゃん。君も何も覚えてないのに、こんなに騒がれちゃあ嫌になっちゃうよね」
「は?なんで俺が悪者みたいな…」
「ほら!僕たちこんなに仲良しだから!ね!」
否応無しにがっし、と肩を組まれる。よもや生理的嫌悪が何より先に湧いたが、少女を気遣うところを見るとこいつはすごく悪い奴ではないらしい。
ヘンリーの必死の弁明に、赤髪の少女は「よかった」と顔をほころばせた。
「しかし、ここは一体どこなんでしょう…?」
一同は改めて周りを見る。長い廊下に沿って並ぶたくさんのカプセル。俺たちはそこから一斉に出てきたのだった。
窓はなく、何一つ文字も見当たらない。完璧な閉鎖空間で、まるでSF映画のセットの中にいるようだった。
カプセルの中に他にも人がいた形跡がちらほらと見られたが、だからと言って何のためにここにいるかの答えはない。
「カプセルには、何かの薬液を流し込むチューブがありましたが…これのせいで僕たちは記憶をなくしたのかも」
「うーん、よくわからないけど、この機械見てるとコールドスリープって言葉が思い浮かぶなあ」
現状、推測を垂れ流すだけで確定的な進展がない。この堂々巡りを終わらせるためには勇気を出してここから出るほかはないのだ。
この長廊下の両端には扉があった。片方は頑丈そうな鉄の扉で、蹴破ることはどうやっても無理そうなつくりをしていた。
背の低いミネットが鍵穴を見つけたが、それも複雑な形をしており記憶喪失者のピッキングでは到底敵わなさそうだった。
「で、あれば。あっちに進むしかなさそうだな」
六郎はもう片側の方向を指差す。透明なガラスの自動ドア。通ることは容易そうだが、何か良からぬことが用意されているような、そんな悪い予感がした。
他の三人も同じなようで、微妙な顔をしている。(一人は表情に出ていないが)
「いえ、そうですね行きましょう。いつまでもここにいて記憶を思い出せないのが嫌だ。何だか自分について知らない自分でいるのが、とても心苦しい、気がします」
「そうだね、あちら側に何か手がかりがあるかもしれない。それにミネットちゃんを早くおうちに帰してあげなきゃ」
…ヘンリーはよくその少女を気にかけていた。今更ではあるが彼女の赤髪と赤い目、その人形のような白い肌は常識から逸脱しているものだと思う。顔立ちは西洋的だが、流暢に日本語を喋っているから日本育ちなのだろうか。
正直、赤スグリのような彼女の目をまっすぐ見れる気がしない。不躾ながら、彼女と視線が合わないことに少し安堵している自分がいる。
それなのにあの男は平然としゃがんで目を合わせながら彼女に語りかけるのだ。よほどの楽観主義者なのか…いやもしかしたら目がよく見えないのかもしれない。
ミネットは何かを気掛かりに思うようにもじもじしてこう言った。
「私みんなの役に立てないと思う、ううん、もしかしたら足を引っ張っちゃうかも。それでもお兄さんたちについていっていいの?」
「大丈夫、ここにいるみんなが君を守ってあげられるから、ほら手をつなごう?」
こういうやりとりを見ていると、こいつを怪しむのをやめたくなってしまう。しかしまだ彼への疑念が晴らすことのできない自分を見ていると、少し己が疎ましくなっていく。記憶が戻ったら、俺は相当悪いやつに変わってしまわないだろうか?本当はこの中で一番悪人なのは自分なのではないだろうか?
城ヶ根ではないが、自分が何者かがわからないというのは足がすくむ思いだ。
六郎は緊張で汗ばむ手をポケットにしまう。
彼は知る由もない。自分が誰かわからない恐怖などは、数時間の彼にとって取るに足らない些細な感情であると。
次回 ヘンリー 【真っ白な部屋~倉庫】